かった。
一時間ばかりして僕はむしろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻って来た。母はどこへ行ったのと聞いたが、後《あと》から、色沢《いろつや》が好くないよ、どうかおしかいと尋ねた。
「昨夕《ゆうべ》好《よ》く寝られなかったんでしょう」
僕は千代子のこの言葉に対して答うべき術《すべ》を知らなかった。実を云うと、昂然《こうぜん》としてなに好く寝られたよと云いたかったのである。不幸にして僕はそれほどの技巧家《アーチスト》でなかった。と云って、正直に寝られなかったと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕はついに何も答えなかった。
三人が同じ食卓で朝飯《あさめし》を済ますや否《いな》や、母が昨日涼しいうちにと頼んでおいた髪結《かみい》が来た。洗《あら》い立《たて》の白い胸掛をかけて、敷居越《しきいごし》に手を突いた彼女は、御帰りなさいましと親しい挨拶《あいさつ》をした。彼女はこの職業に共通なめでたい口ぶりを有《も》っていた。それを得意に使って、内気な母に避暑を誇の種に話させる機会を一句ごとに作った。母は満足らしくも見えたが、そう蝶蝶《ちょうちょう》しくは饒舌《しゃべ》り得なかった。髪結はより効目《ききめ》のある相手として、すぐ年の若い千代子を選んだ。千代子は固《もと》より誰彼の容赦なく一様に気易《きやす》く応対のできる女だったので、御嬢様と呼びかけられるたびに相当の受答《うけこたえ》をして話を勢《はず》ました。千代子の泳の噂《うわさ》が出た時、髪結は活溌《かっぱつ》で宜《よろ》しゅうございます、近頃の御嬢様方はみんな水泳の稽古《けいこ》をなさいますと誰が聞いても拵《こしら》えたような御世辞を云った。
妙な事を吹聴《ふいちょう》するようでおかしいが、実をいうと僕は女の髪を上げるところを見ているのが好きであった。母が乏《とも》しい髪を工面して、どうかこうか髷《まげ》に結《ゆ》い上げる様子は、いくら上手《じょうず》が纏《まと》めるにしても、それほど見栄《みばえ》のある画《え》ではないが、それでも退屈を凌《しの》ぐには恰好《かっこう》な慰みであった。僕は髪結の手の動く間《ま》に、自然とでき上って行く小さな母の丸髷《まるまげ》を眺《なが》めていた。そうして腹の中で、千代子の髪を日本流に櫛《くし》を入れたらさぞみごとだろうと思った。千代子は色の美くしい、癖のない、長くて多過
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