ても好いというつもりか。あるいは高木と僕と戦うところを眺《なが》めて面白かったというつもりか。または高木を僕の眼の前に出して、こういう人がいるのだから、早く思い切れというつもりか。――僕は技巧の二字をどこまでも割って考えた。そうして技巧なら戦争だと考えた。戦争ならどうしても勝負に終るべきだと考えた。
僕は寝つかれないで負けている自分を口惜《くや》しく思った。電灯は蚊帳を釣るとき消してしまったので、室《へや》の中に隙間《すきま》もなく蔓延《はびこ》る暗闇《くらやみ》が窒息するほど重苦しく感ぜられた。僕は眼の見えないところに眼を明けて頭だけ働らかす苦痛に堪《た》えなくなった。寝返りさえ慎んで我慢していた僕は、急に起《た》って室《へや》を明るくした。ついでに縁側《えんがわ》へ出て雨戸を一枚細目に開けた。月の傾むいた空の下には動く風もなかった。僕はただ比較的冷かな空気を肌と咽喉《のど》に受けただけであった。
三十二
翌日《あくるひ》はいつも一人で寝ている時より一時間半も早く眼が覚《さ》めた。すぐ起きて下へ降りると、銀杏返《いちょうがえ》しの上へ白地の手拭《てぬぐい》を被《かぶ》って、長火鉢《ながひばち》の灰を篩《ふる》っていた作《さく》が、おやもう御目覚《おめざめ》でと云いながら、すぐ顔を洗う道具を風呂場へ並べてくれた。僕は帰りに埃《ほこり》だらけの茶の間を爪先《つまさき》で通り抜けて玄関へ出た。その時ついでに二人の寝ている座敷を蚊帳越《かやご》しに覗《のぞ》いて見たら、目敏《めざと》い母も昨日《きのう》の汽車の疲が出たせいか、まだ静かな眠《ねむり》を貪《むさ》ぼっていた。千代子は固《もと》より夢の底に埋《うず》まっているように正体なく枕の上に首を落していた。僕は目的《あて》もなく表へ出た。朝の散歩の趣《おもむき》を久しく忘れていた僕には、常に変わらない町の色が、暑さと雑沓《ざっとう》とに染めつけられない安息日のごとく穏《おだ》やかに見えた。電車の線路が研《と》ぎ澄まされた光を真直《まっすぐ》に地面の上に伸ばすのも落ちついた感じであった。けれども僕は散歩がしたくって出たのではなかった。ただ眼が早く覚《さ》め過ぎて、中有《はした》に延びた命の断片を、運動で埋《う》めるつもりで歩くのだから、それほどの興味は空にも地にも乃至《ないし》町にも見出す事ができな
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