らそうと切り出されるまで覚《さと》らずに、どうも変だとばかり考えていた。
「実は少し御願があって上ったんですが」と云った主人はやや小声になって、「森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから」と藪《やぶ》から棒につけ加えた。
敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨拶《あいさつ》も口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔を覗《のぞ》き込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の火箸《ひばし》で雁首《がんくび》を掘っていた。それが済んでから羅宇《らう》の疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
主人の云うところによると、森本は下宿代が此家《ここ》に六カ月ばかり滞《とどこお》っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此年《ことし》の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。家《うち》のものは固《もと》より出張とばかり信じていたが、その日限《にちげん》が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音信《たより》も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の室《へや》を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷《や》められていたそうである。
「それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに御出《おいで》か分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか」
敬太郎はこの失踪者《しっそうしゃ》の友人として、彼の香《かん》ばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の嘆賞《たんしょう》を懐《ふところ》にして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように見做《みな》されては、未来を有《も》つ
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