に入れてあると、ははあ先生今日は宅《うち》にいるなと思いながら敬太郎は常に下宿の門《かど》を出入《でいり》した。するとその洋杖《ステッキ》がちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。

        十

 一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、敬太郎《けいたろう》はようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。固《もと》より役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男を相《そう》して、何でも停車場《ステーション》の構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か翌日《あした》は帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
 しまいに宿の神《かみ》さんが来て、森本さんから何か御音信《おたより》がございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色を梟《ふくろ》のような丸い眼の中《うち》に漂《ただ》よわせて出て行った。それから一週間ほど経《た》っても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審を抱《いだ》き始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した出花《でばな》なので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食の計《はかりごと》のために、好奇家の権利を放棄したのである。
 すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら障子《しょうじ》を開けて這入《はい》って来た。彼は腰から古めかしい煙草入《たばこいれ》を取り出して、その筒《つつ》を抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の煙管《きせる》に刻草《きざみ》を詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴から迸《ほとば》しらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は判然《はっきり》向うか
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