見ても、どうもほかの名はつけ悪《にく》いようである。それなら僕がそれほど千代子に恋していたのだろうか。問題がそう推移すると、僕も返事に窮《きゅう》するよりほかに仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を脈搏《みゃくはく》の上に感じていなかったからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深《しっとぶか》い訳になるが、あるいはそうかも知れない。しかしもっと適当に評したら、おそらく僕本来のわがままが源因なのだろうと思う。ただ僕は一言《いちごん》それにつけ加えておきたい。僕から云わせると、すでに鎌倉を去った後《あと》なお高木に対しての嫉妬心がこう燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があったばかりでなく、千代子自身に重い責任があったのである。相手が千代子だから、僕の弱点がこれほどに濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚《はばか》らない。では千代子のどの部分が僕の人格を堕落させるだろうか。それはとても分らない。あるいは彼女の親切じゃないかとも考えている。

        三十一

 千代子の様子はいつもの通り明《あけ》っ放《ぱな》しなものであった。彼女はどんな問題が出ても苦もなく口を利《き》いた。それは必竟《ひっきょう》腹の中に何も考えていない証拠《しょうこ》だとしか取れなかった。彼女は鎌倉へ行ってから水泳を自習し始めて、今では背の立たない所まで行くのが楽みだと云った。それを用心深い百代子が剣呑《けんのん》がって、詫《あや》まるように悲しい声を出して止《と》めるのが面白いと云った。その時母は半《なか》ば心配で半ば呆《あき》れたような顔をして、「何ですね女の癖にそんな軽機《かるはずみ》な真似をして。これからは後生《ごしょう》だから叔母さんに免じて、あぶない悪ふざけは止《よ》しておくれよ」と頼んでいた。千代子はただ笑いながら、大丈夫よと答えただけであったが、ふと縁側《えんがわ》の椅子に腰を掛けている僕を顧《かえり》みて、市《いっ》さんもそう云う御転婆《おてんば》は嫌《きらい》でしょうと聞いた。僕はただ、あんまり好きじゃないと云って、月の光の隈《くま》なく落ちる表を眺《なが》めていた。もし僕が自分の品格に対して尊敬を払う事を忘れたなら、「しかし高木さんには気に入るんだろう」という言葉をその後《あと》にきっとつけ加えたに違ない。そこまで引き摺《ず》られなかったのは、僕の体面上ま
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