だという畏怖《いふ》の念から解脱《げだつ》する事ができなかった。
それだから僕はゲダンケの主人公を見て驚ろいたのである。親友の命を虫の息のように軽《かろ》く見る彼は、理と情《じょう》との間に何らの矛盾をも扞格《かんかく》をも認めなかった。彼の有する凡《すべ》ての知力は、ことごとく復讐《ふくしゅう》の燃料となって、残忍な兇行を手際《てぎわ》よく仕遂げる方便に供せられながら、毫《ごう》も悔ゆる事を知らなかった。彼は周密なる思慮を率《ひき》いて、満腔《まんこう》の毒血を相手の頭から浴びせかけ得る偉大なる俳優であった。もしくは尋常以上の頭脳と情熱を兼ねた狂人であった。僕は平生の自分と比較して、こう顧慮なく一心にふるまえるゲダンケの主人公が大いに羨《うらや》ましかった。同時に汗《あせ》の滴《したた》るほど恐ろしかった。できたらさぞ痛快だろうと思った。でかした後《あと》は定めし堪《た》えがたい良心の拷問《ごうもん》に逢うだろうと思った。
けれどももし僕の高木に対する嫉妬《しっと》がある不可思議の径路を取って、向後《こうご》今の数十倍に烈《はげ》しく身を焼くならどうだろうと僕は考えた。しかし僕はその時の自分を自分で想像する事ができなかった。始めは人間の元来からの作りが違うんだから、とてもこんな真似《まね》はしえまいという見地から、すぐこの問題を棄却《ききゃく》しようとした。次には、僕でも同じ程度の復讐《ふくしゅう》が充分やって除《の》けられるに違いないという気がし出した。最後には、僕のように平生は頭と胸の争いに悩んでぐずついているものにして始めてこんな猛烈な兇行を、冷静に打算的に、かつ組織的に、逞《たく》ましゅうするのだと思い出した。僕は最後になぜこう思ったのか自分にも分らない。ただこう思った時急に変な心持に襲われた。その心持は純然たる恐怖でも不安でも不快でもなく、それらよりは遥《はる》かに複雑なものに見えた。が、纏《まとま》って心に現われた状態から云えば、ちょうどおとなしい人が酒のために大胆になって、これなら何でもやれるという満足を感じつつ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上において平生の自分より遥に堕落したのだと気がついて、そうして堕落は酒の影響だからどこへどう避けても人間としてとても逃《のが》れる事はできないのだと沈痛に諦《あき》らめをつけたと同じような変な心持であ
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