った。僕はこの変な心持と共に、千代子の見ている前で、高木の脳天に重い文鎮《ぶんちん》を骨の底まで打ち込んだ夢を、大きな眼を開《あ》きながら見て、驚ろいて立ち上った。
下へ降りるや否《いな》や、いきなり風呂場《ふろば》へ行って、水をざあざあ頭へかけた。茶の間の時計を見ると、もう午過《ひるすぎ》なので、それを好い機会《しお》に、そこへ坐《す》わって飯を片づける事にした。給仕には例の通り作《さく》が出た。僕は二《ふ》た口《くち》三口《みくち》無言で飯の塊《かたま》りを頬張ったが、突然彼女に、おい作僕の顔色はどうかあるかいと聞いた。作は吃驚《びっくり》した眼を大きくして、いいえと答えた。それで問答が切れると、今度は作の方がどうか遊ばしましたかと尋ねた
「いいや、大してどうもしない」
「急に御暑うございますから」
僕は黙って二杯の飯を食い終った。茶を注《つ》がして飲みかけた時、僕はまた突然作に、鎌倉などへ行って混雑《ごたごた》するより宅《うち》にいる方が静《しずか》で好いねと云った。作は、でもあちらの方が御涼しゅうございましょうと云った。僕はいやかえって東京より暑いくらいだ、あんな所にいると気ばかりいらいらしていけないと説明してやった。作は御隠居さまはまだ当分あちらにおいででございますかと尋ねた。僕はもう帰るだろうと答えた。
二十九
僕は僕の前に坐《すわ》っている作《さく》の姿を見て、一筆《ひとふで》がきの朝貌《あさがお》のような気がした。ただ貴《たっ》とい名家の手にならないのが遺憾《いかん》であるが、心の中はそう云う種類の画《え》と同じく簡略にでき上っているとしか僕には受取れなかった。作の人柄《ひとがら》を画に喩《たと》えて何のためになると聞かれるかも知れない。深い意味もなかろうが、実は彼女の給仕を受けて飯を食う間に、今しがたゲダンケを読んだ自分と、今黒塗の盆を持って畏《かしこ》まっている彼女とを比較して、自分の腹はなぜこうしつこい油絵のように複雑なのだろうと呆《あき》れたからである。白状すると僕は高等教育を受けた証拠《しょうこ》として、今日《こんにち》まで自分の頭が他《ひと》より複雑に働らくのを自慢にしていた。ところがいつかその働らきに疲れていた。何の因果《いんが》でこうまで事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考えて情なかった。僕は茶碗《
前へ
次へ
全231ページ中192ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング