い出してから、今まで懇意に往来《ゆきき》していた誰彼の門戸が、彼に対して急に固く鎖《とざ》されるようになった。けれどもそれは彼の苦にするところではなかった。彼はなお自由に出入《でいり》のできる一軒の家を持っていた。それが取りも直さず彼のまさに死の国に蹴落《けおと》そうとしつつある友とその細君の家だったのである。彼はある日何気ない顔をして友の住居《すまい》を敲《たた》いた。そこで世間話に時を移すと見せて、暗に目の前の人に飛びかかる機を窺《うかが》った。彼は机の上にあった重い文鎮《ぶんちん》を取って、突然これで人が殺せるだろうかと尋ねた。友は固《もと》より彼の問を真《ま》に受けなかった。彼は構わずできるだけの力を文鎮に込めて、細君の見ている前で、最愛の夫を打ち殺した。そうして狂人の名の下《もと》に、瘋癲院《ふうてんいん》に送られた。彼は驚ろくべき思慮と分別と推理の力とをもって、以上の顛末《てんまつ》を基礎に、自分のけっして狂人でない訳をひたすら弁解している。かと思うと、その弁解をまた疑っている。のみならず、その疑いをまた弁解しようとしている。彼は必竟《ひっきょう》正気なのだろうか、狂人なのだろうか、――僕は書物を手にしたまま慄然《りつぜん》として恐れた。
二十八
僕の頭《ヘッド》は僕の胸《ハート》を抑《おさ》えるためにできていた。行動の結果から見て、はなはだしい悔《くい》を遺《のこ》さない過去を顧《かえり》みると、これが人間の常体かとも思う。けれども胸が熱しかけるたびに、厳粛な頭の威力を無理に加えられるのは、普通誰でも経験する通り、はなはだしい苦痛である。僕は意地張《いじばり》という点において、どっちかというとむしろ陰性の癇癪持《かんしゃくもち》だから、発作《ほっさ》に心を襲《おそ》われた人が急に理性のために喰い留められて、劇《はげ》しい自動車の速力を即時に殺すような苦痛は滅多《めった》に甞《な》めた事がない。それですらある場合には命の心棒を無理に曲げられるとでも云わなければ形容しようのない活力の燃焼を内に感じた。二つの争いが起るたびに、常に頭の命令に屈従して来た僕は、ある時は僕の頭が強いから屈従させ得るのだと思い、ある時は僕の胸が弱いから屈従するのだとも思ったが、どうしてもこの争いは生活のための争いでありながら、人知れず、わが命を削《けず》る争い
前へ
次へ
全231ページ中190ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング