書いてある事が嫉妬《しっと》なのだか、復讐《ふくしゅう》なのだか、深刻な悪戯《いたずら》なのだか、酔興《すいきょう》な計略なのだか、真面目《まじめ》な所作なのだか、気狂《きちがい》の推理なのだか、常人の打算なのだか、ほとんど分らないが、何しろ華々《はなばな》しい行動と同じく華々しい思慮が伴なっているから、ともかくも読んで見ろと云った。僕は書物を借りて帰った。しかし読む気はしなかった。僕は読み耽《ふけ》らない癖に、小説家というものをいっさい馬鹿にしていた上に、友達のいうような事にはちっとも心を動かすべき興味を有《も》たなかったからである。
この出来事をすっかり忘れていた僕は、何の気もつかずにそのゲダンケを今|棚《たな》の後《うしろ》から引き出して厚い塵《ちり》を払った。そうして見覚《みおぼえ》のある例の独乙字の標題に眼をつけると共に、かの文学好の友達と彼のその時の言葉とを思い出した。すると突然どこから起ったか分らない好奇心に駆《か》られて、すぐその一|頁《ページ》を開いて初めから読み始めた。中には恐るべき話が書いてあった。
ある女に意《い》のあったある男が、その婦人から相手にされないのみか、かえってわが知り合の人の所へ嫁入られたのを根に、新婚の夫を殺そうと企てた。ただしただ殺すのではない。女房が見ている前で殺さなければ面白くない。しかもその見ている女房が彼を下手人と知っていながら、いつまでも指を銜《くわ》えて、彼を見ているだけで、それよりほかにどうにも手のつけようのないという複雑な殺し方をしなければ気がすまない。彼はその手段《てだて》として一種の方法を案出した。ある晩餐《ばんさん》の席へ招待された好機を利用して、彼は急に劇《はげ》しい発作《ほっさ》に襲《おそ》われたふりをし始めた。傍《はた》から見るとまるで狂人としか思えない挙動をその場であえてした彼は、同席の一人残らずから、全くの狂人と信じられたのを見すまして、心の内で図に当った策略を祝賀した。彼は人目に触れやすい社交場|裡《り》で、同じ所作《しょさ》をなお二三度くり返した後、発作のために精神に狂《くるい》の出る危険な人という評判を一般に博し得た。彼はこの手数《てかず》のかかった準備の上に、手のつけようのない殺人罪を築き上げるつもりでいたのである。しばしば起る彼の発作が、華《はな》やかな交際の色を暗く損《そこ》な
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