て、すぐ階下《した》へ下げた。僕は一時間ほど書物を伏せたり立てたりして少し草臥《くたび》れたから煙草《たばこ》を吹かして休んでいると、作がまた梯子段から顔を出した。そうして、私でよろしければ何ぞ致しましょうかと尋ねた。僕は作に何かさせてやりたかった。不幸にして西洋文字の読めない彼女には手の出せない書物の整理なので、僕は気の毒だけれども、なに好いよと断ってまた下へ追いやった。
作の事をそう一々云う必要もないが、つい前からの関係で、彼女のその時の行動を覚えていたから話したのである。僕は一本の巻煙草《まきたばこ》を呑み切った後《あと》でまた整理にかかった。今度は作のためにわれ一人《いちにん》の世界を妨《さま》たげられる虞《おそれ》なしに、書架の二段目を一気に片づけた。その時僕は久しく友達に借りて、つい返すのを忘れていた妙な書物を、偶然|棚《たな》の後《うしろ》から発見した。それはむしろ薄い小形の本だったので、ついほかのものの向側《むこうがわ》へ落ちたなり埃だらけになって、今日《きょう》まで僕の眼を掠《かす》めていたのである。
二十七
僕にこの本を貸してくれたものはある文学|好《ずき》の友達であった。僕はかつてこの男と小説の話をして、思慮の勝ったものは、万事に考え込むだけで、いっこう華《はな》やかな行動を仕切る勇気がないから、小説に書いてもつまらないだろうと云った。僕の平生からあまり小説を愛読しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考え考えしてぐずつくせいだろうとかねがね思っていたから、僕はついこういう質問がかけて見たくなったのである。その時彼は机上にあったこの本を指《さ》して、ここに書いてある主人公は、非常に目覚《めざま》しい思慮と、恐ろしく凄《すさ》まじい思い切った行動を具《そな》えていると告げた。僕はいったいどんな事が書いてあるのかと聞いた。彼はまあ読んで見ろと云って、その本を取って僕に渡した。標題にはゲダンケという独乙字《ドイツじ》が書いてあった。彼は露西亜物《ロシアもの》の翻訳だと教えてくれた。僕は薄い書物を手にしながら、重ねてその梗※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1−86−3]《こうがい》を彼に尋ねた。彼は梗※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1−86−3]などはどうでも好いと答えた。そうして中に
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