、粗末《ぞんざい》[#ルビの「ぞんざい」は底本では「そんざい」]な言葉で、蛸《たこ》を捕るんだと答えた。この奇抜な返事には千代子も百代子も驚ろくよりもおかしかったと見えて、たちまち声を出して笑った。
「蛸はどこにいるんだ」と叔父がまた聞いた。
「ここいらにいるんだ」と船頭はまた答えた。
そうして湯屋の留桶《とめおけ》を少し深くしたような小判形《こばんなり》の桶の底に、硝子《ガラス》を張ったものを水に伏せて、その中に顔を突込《つっこ》むように押し込みながら、海の底を覗《のぞ》き出した。船頭はこの妙な道具を鏡《かがみ》と称《とな》えて、二つ三つ余分に持ち合わせたのを、すぐ僕らに貸してくれた。第一にそれを利用したのは船頭の傍《そば》に座を取った吾一と百代子であった。
二十四
鏡がそれからそれへと順々に回った時、叔父はこりゃ鮮《あざ》やかだね、何でも見えると非道《ひど》く感心していた。叔父は人間社会の事に大抵通じているせいか、万《よろず》に高《たか》を括《くく》る癖に、こういう自然界の現象に襲《おそ》われるとじき驚ろく性質《たち》なのである。自分は千代子から渡された鏡を受け取って、最後に一枚の硝子越に海の底を眺めたが、かねて想像したと少しも異なるところのない極《きわ》めて平凡な海の底が眼に入《い》っただけである。そこには小《ち》さい岩が多少の凸凹《とつおう》を描いて一面に連《つら》なる間に、蒼黒《あおぐろ》い藻草《もくさ》が限りなく蔓延《はびこ》っていた。その藻草があたかも生温《なまぬ》るい風に嬲《なぶ》られるように、波のうねりで静かにまた永久に細長い茎を前後に揺《うご》かした。
「市《いっ》さん蛸が見えて」
「見えない」
僕は顔を上げた。千代子はまた首を突込《つっこ》んだ。彼女の被《かぶ》っていたへなへなの麦藁帽子《むぎわらぼうし》の縁《ふち》が水に浸《つか》って、船頭に操《あや》つられる船の勢に逆《さか》らうたびに、可憐な波をちょろちょろ起した。僕はその後《うしろ》に見える彼女の黒い髪と白い頸筋《くびすじ》を、その顔よりも美くしく眺めていた。
「千代ちゃんには、目付《めっ》かったかい」
「駄目よ。蛸《たこ》なんかどこにも泳いでいやしないわ」
「よっぽど慣れないとなかなか目付《めっ》ける訳に行かないんだそうです」
これは高木が千代子のために説明
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