ておいた。その嫉妬は程度において昨日《きのう》も今日《きょう》も同じだったかも知れないが、それと共に競争心はいまだかつて微塵《みじん》も僕の胸に萌《きざ》さなかったのである。僕も男だからこれから先いつどんな女を的《まと》に劇烈な恋に陥《おちい》らないとも限らない。しかし僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐《ふとこ》ろにして恋人を見棄ててしまうつもりでいる。男らしくないとも勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他《ひと》から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価《あたい》しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡《なび》かない女を無理に抱《だ》く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放ってやった時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕《きずあと》を淋《さみ》しく見つめている方が、どのくらい良心に対して満足が多いか分らないのである。
僕は千代子にこう云った。――
「千代ちゃん行っちゃどうだ。あっちの方が広くって楽《らく》なようだから」
「なぜ、ここにいちゃ邪魔なの」
千代子はそう云ったまま動こうとしなかった。僕には高木がいるからあっちへ行けというのだというような説明は、露骨と聞こえるにしろ、厭味《いやみ》と受取られるにしろ、全く口にする勇気は出なかった。ただ彼女からこう云われた僕の胸に、一種の嬉《うれ》しさが閃《ひら》めいたのは、口と腹とどう裏表になっているかを曝露《ばくろ》する好い証拠《しょうこ》で、自分で自分の薄弱な性情を自覚しない僕には痛い打撃であった。
昨日《きのう》会った時よりは気のせいか少し控目になったように見える高木は、千代子と僕の間に起ったこの問答を聞きながら知らぬふりをしていた。船が磯《いそ》を離れたとき、彼は「好い案排《あんばい》に空模様が直って来ました。これじゃ日がかんかん照るよりかえって結構です。船遊びには持って来いという御天気で」というような事を叔父と話し合ったりした。叔父は突然大きな声を出して、「船頭、いったい何を捕《と》るんだ」と聞いた。叔父もその他のものも、この時まで何を捕るんだかいっこう知らずにいたのである。坊主頭の船頭は
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