いねと云い出した。百代子は、あたしもう御魚なんかどうでも好いから、早く帰りたくなったわと心細そうな声を出した。この時まで双眼鏡で海の方を見ながら、断《た》えず千代子と話していた高木はすぐ後《うしろ》を振り返った。
「何をしているだろう。ちょっと行って様子を見て来ましょう」
 彼はそう云いながら、手に持った雨外套《レインコート》と双眼鏡を置くために後《うしろ》の縁を顧《かえり》みた。傍《そば》に立った千代子は高木の動かない前に手を出した。
「こっちへ御出しなさい。持ってるから」
 そうして高木から二つの品を受け取った時、彼女は改めてまた彼の半袖姿《はんそですがた》を見て笑いながら、「とうとう蛮殻《ばんから》になったのね」と評した。高木はただ苦笑しただけで、すぐ浜の方へ下りて行った。僕はさも運動家らしく発達した彼の肩の肉が、急いで石段を下りるために手を振るごとに動く様を後から無言のまま注意して眺《なが》めた。

        二十三

 船に乗るためにみんなが揃《そろ》って浜に下り立ったのはそれから約一時間の後《のち》であった。浜には何の祭の前か過《すぎ》か、深く砂の中に埋《う》められた高い幟《のぼり》の棒が二本僕の眼を惹《ひ》いた。吾一はどこからか磯《いそ》へ打ち上げた枯枝を拾って来て、広い砂の上に大きな字と大きな顔をいくつも並べた。
「さあ御乗り」と坊主頭の船頭が云ったので、六人は順序なくごたごたに船縁《ふなべり》から這《は》い上った。偶然の結果千代子と僕は後《あと》のものに押されて、仕切りの付いた舳《へさき》の方に二人|膝《ひざ》を突き合せて坐った。叔父は一番先に、胴《どう》の間《ま》というのか、真中の広い所に、家長《かちょう》らしく胡坐《あぐら》をかいてしまった。そうして高木をその日の客として取り扱うつもりか、さあどうぞと案内したので、彼は否応《いやおう》なしに叔父の傍《そば》に座を占めた。百代子と吾一は彼らの次の間《ま》と云ったような仕切の中に船頭といっしょに這入った。
「どうですこっちが空《す》いてますからいらっしゃいませんか」と高木はすぐ後《うしろ》の百代子を顧《かえり》みた。百代子はありがとうといったきり席を移さなかった。僕は始めから千代子と一つ薄縁《うすべり》の上に坐るのを快く思わなかった。僕の高木に対して嫉妬《しっと》を起した事はすでに明かに自白し
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