ごめんこうむ》って雨防衣《レインコート》を脱ごうと云い出した。
 家は下から見たよりもなお小さくて汚なかった。戸口に杓子《しゃくし》が一つ打ちつけてあって、それに百日風邪《ひゃくにちかぜ》吉野平吉一家一同と書いてあるので、主人の名がようやく分った。それを見つけ出して、みんなに聞こえるように読んだのは、目敬《めざと》い吾一の手柄であった。中を覗《のぞ》くと天井も壁もことごとく黒く光っていた。人間としては婆さんが一人いたぎりである。その婆さんが、今日は天気がよくないので、おおかたおいでじゃあるまいと云って早く海へ出ましたから、今浜へ下りて呼んできましょうと断わりを述べた。舟へ乗って出たのかねと叔父が聞くと、婆さんは多分あの船だろうと答えて、手で海の上を指《さ》した。靄《もや》はまだ晴れなかったけれども、先刻《さっき》よりは空がだいぶ明るくなったので、沖の方は比較的|判切《はっきり》見える中に、指された船は遠くの向うに小さく横《よこた》わっていた。
「あれじゃ大変だ」
 高木は携《たずさ》えて来た双眼鏡を覗《のぞ》きながらこう云った。
「随分|呑気《のんき》ね、迎《むか》いに行くって、どうしてあんな所へ迎に行けるんでしょう」と千代子は笑いながら、高木の手から双眼鏡を受取った。
 婆さんは何|直《じき》ですと答えて、草履《ぞうり》を穿《は》いたまま、石段を馳《か》け下りて行った。叔父は田舎者《いなかもの》は気楽だなと笑っていた。吾一は婆さんの後《あと》を追かけた。百代子はぼんやりして汚ない縁へ腰をおろした。僕は庭を見廻した。庭という名のもったいなく聞こえる縁先は五坪《いつつぼ》にも足りなかった。隅《すみ》に無花果《いちじく》が一本あって、腥《なま》ぐさい空気の中に、青い葉を少しばかり茂らしていた。枝にはまだ熟しない実《み》が云訳《いいわけ》ほど結《な》って、その一本の股《また》の所に、空《から》の虫籠《むしかご》がかかっていた。その下には瘠《や》せた鶏が二三羽むやみに爪を立てた地面の中を餓《う》えた嘴《くちばし》でつついていた。僕はその傍《そば》に伏せてある鉄網《かなあみ》の鳥籠《とりかご》らしいものを眺《なが》めて、その恰好《かっこう》がちょうど仏手柑《ぶしゅかん》のごとく不規則に歪《ゆが》んでいるのに一種|滑稽《こっけい》な思いをした。すると叔父が突然、何分|臭《くさ》
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