んなに価《あたい》が高かったろう。僕は母を欺《あざ》むく材料に自然から使われる自分を心苦しく思って、門を出る時振り返って見たら、母も叔母もまだこっちを見ていた。
途中まで来た頃、千代子は思い出したように突然とまって、「あっ高木さんを誘うのを忘れた」と云った。百代子はすぐ僕の顔を見た。僕は足の運びを止《と》めたが、口は開かなかった。「もう好いじゃないの、ここまで来たんだから」と百代子が云った。「だってあたし先刻《さっき》誘ってくれって頼まれたのよ」と千代子が云った。百代子はまた僕の顔を見て逡巡《ためら》った。
「市《いっ》さんあなた時計持っていらしって。今何時」
僕は時計を出して百代子に見せた。
「まだ間に合わない事はない。誘って来るなら来ると好い。僕は先へ行って待っているから」
「もう遅いわよあなた。高木さん、もしいらっしゃるつもりならきっと一人でもいらしってよ。後から忘れましたって詫《あや》まったらそれで好《よ》かないの」
姉妹は二三度押問答の末ついに後戻りをしない事にした。高木は百代子の予言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ這入《はい》って来て、姉妹に、どうも非道《ひど》い、あれほど頼んでおくのにと云った。それから御母さんはと聞いた。最後に僕の方を向いて、先ほどはと愛想《あいそ》の好い挨拶《あいさつ》をした。
十九
その晩は叔父と従弟《いとこ》を待ち合わした上に、僕ら母子《おやこ》が新たに食卓に加わったので、食事の時間がいつもより、だいぶ後《おく》れたばかりでなく、私《ひそ》かに恐れた通りはなはだしい混雑の中《うち》に箸《はし》と茶椀の動く光景を見せられた。叔父は笑いながら、市《いっ》さんまるで火事場のようだろう、しかし会《たま》にはこんな騒ぎをして飯を食うのも面白いものだよと云って、間接の言訳をした。閑静な膳《ぜん》に慣れた母は、この賑《にぎ》やかさの中に実際叔父の言葉通り愉快らしい顔をしていた。母は内気な癖にこういう陽気な席が好きなのである。彼女はその時偶然口に上《のぼ》った一塩《ひとしお》にした小鰺《こあじ》の焼いたのを美味《うま》いと云ってしきりに賞《ほ》めた。
「漁師《りょうし》に頼んどくといくらでも拵《こしら》えて来てくれますよ。何なら、帰りに持っていらっしゃいな。姉さんが好きだから上げたいと思ってたんですが、つい
前へ
次へ
全231ページ中172ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング