で谷が急にいっぱいになったが最後、米など背負《しょ》って帰れる訳のものでない。森本は腹が減って仕方がないから、じっと仰向《あおむけ》に寝て、ただ空を眺《なが》めていたところが、しまいにぼんやりし出して、夜も昼もめちゃくちゃに分らなくなったそうである。
「そう長い間飲まず食わずじゃ、両便《りょうべん》とも留《と》まるでしょう」と敬太郎が聞くと、「いえ何、やっぱりありますよ」と森本はすこぶる気楽そうに答えた。
九
敬太郎《けいたろう》は微笑せざるを得なかった。しかしそれよりもおかしく感じたのは、森本の形容した大風の勢であった。彼らの一行が測量の途次|茫々《ぼうぼう》たる芒原《すすきはら》の中で、突然|面《おもて》も向けられないほどの風に出会った時、彼らは四《よ》つ這《ばい》になって、つい近所の密林の中へ逃げ込んだところが、一抱《ひとかかえ》も二抱《ふたかかえ》もある大木の枝も幹も凄《すさ》まじい音を立てて、一度に風から痛振《いたぶ》られるので、その動揺が根に伝わって、彼らの踏んでいる地面が、地震の時のようにぐらぐらしたと云うのである。
「それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで、立っている訳に行かないでしょう」と敬太郎が聞くと、「無論突伏していました」という答であったが、いくら非道《ひど》い風だって、土の中に張った大木の根が動いて、地震を起すほどの勢《いきおい》があろうとは思えなかったので、敬太郎は覚えず吹き出してしまった。すると森本もまるで他事《ひとごと》のように同じく大きな声を出して笑い始めたが、それがすむと、急に真面目《まじめ》になって、敬太郎の口を抑えるような手つきをした。
「おかしいが本当です。どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから、不中用《やくざ》にゃあ違ないが本当です。――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全く嘘《うそ》のような話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるし、またあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して御出《おいで》なさる御様子だが、大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかっても、まさか親の敵討《かたきうち》じゃなしね、そう真剣に自分の位地《いち》を棄《す》てて漂浪《ひょうろ
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