った。固《もと》より人間のいない所に天幕《テント》を張って寝起をして、用が片づきしだい、また天幕を担《かつ》いで、先へ進むのだから、当人の断った通り、とうてい女っ気《け》のありようはずはなかった。
「何しろ高さ二丈もある熊笹《くまざさ》を切り開いて途《みち》をつけるんですからね」と彼は右手を額より高く上げて、いかに熊笹が高く茂っていたかを形容した。その切り開いた途の両側に、朝起きて見ると、蝮蛇《まむし》がとぐろを巻いて日光を鱗《うろこ》の上に受けている。それを遠くから棒で抑《おさ》えておいて、傍《そば》へ寄って打《ぶ》ち殺して肉を焼いて食うのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本はよく思い出せないが、何でも魚肉《さかな》と獣肉《にく》の間ぐらいだろうと答えた。
天幕《テント》の中へは熊笹の葉と小枝を山のように積んで、その上に疲れた身体《からだ》を埋《うず》めぬばかりに投げかけるのが例であるが、時には外へ出て焚火《たきび》をして、大きな熊を眼の前に見る事もあった。虫が多いので蚊帳《かや》は始終《しじゅう》釣っていた。ある時その蚊帳を担《かつ》いで谷川へ下りて、何とかいう川魚を掬《すく》って帰ったら、その晩から蚊帳が急に腥《なまぐ》さくなって困った。――すべてこれらは森本のいわゆる呑気生活の一部分であった。
彼はまた山であらゆる茸《たけ》を採《と》って食ったそうである。ます茸《だけ》というのは広葢《ひろぶた》ほどの大きさで、切って味噌汁《みそしる》の中へ入れて煮るとまるで蒲鉾《かまぼこ》のようだとか、月見茸《つきみだけ》というのは一抱《ひとかかえ》もあるけれども、これは残念だが食えないとか、鼠茸《ねずみだけ》というのは三つ葉の根のようで可愛《かわい》らしいとか、なかなか精《くわ》しい説明をした。大きな笠《かさ》の中へ、野葡萄《のぶどう》をいっぱい採って来て、そればかり貪《むさ》ぼっていたものだから、しまいに舌《した》が荒れて、飯が食えなくなって困ったという話もついでにつけ加えた。
食う話ばかりかと思うと、また一週間絶食をしたという悲酸《ひさん》な物語もあった。それはみんなの糧《かて》が尽きたので、人足が村まで米を取りに行った留守中に大変な豪雨があった時の事である。元々村へ出るには、沢辺《さわべ》まで降りて、沢伝いに里へ下るのだから、俄雨《にわかあめ》
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