、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど呑気《のんき》な生活は世界にまたとなかろうという奴をやった覚《おぼえ》があるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」
敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間の気《け》がないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。敬太郎は一種の好奇心を抱《いだ》いて、彼の帰るのを待ち受けた。
八
ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。敬太郎《けいたろう》はとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた階段《はしごだん》を上《あが》って、彼の部屋の前まで来ると、障子《しょうじ》を五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきに転《ころ》がっているものがすなわち彼であった。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなり室《へや》に這入《はい》り込むや否や、森本の首筋を攫《つか》んで強く揺振《ゆすぶ》った。森本は不意に蜂《はち》にでも螫《さ》されたように、あっと云って半《なか》ば跳《は》ね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ夢現《ゆめうつつ》のたるい眼つきに戻って、
「やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって」と弁解する様子に、これといって他《ひと》を愚弄《ぐろう》する体《てい》もないので、敬太郎もつい怒《おこ》れなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで一頓挫《いちとんざ》を来《きた》したも同然なので、一人自分の室《へや》に引取ろうとすると、森本は「どうもすみません、御苦労様でした」と云いながら、また後《あと》から敬太郎について来た。そうして先刻《さっき》まで自分の坐《すわ》っていた座蒲団《ざぶとん》の上に、きちんと膝《ひざ》を折って、
「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
森本の呑気生活というのは、今から十五六年|前《ぜん》彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であ
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