談でもするように僕の顔色を見たのを覚えている。僕はいつもの通り冷淡な調子で、好いかも知れない、御父さんか御母さんに話して御覧と云ったと記憶する。それから以後僕の田口の家《うち》に足を入れた度数は何遍あるか分らないが、高木の名前は少くとも僕のいる席ではついぞ誰の口にも上《のぼ》らなかったのである。それほど親しみの薄い、顔さえ見た事のない男の住居《すまい》に何の興味があって、僕はわざわざ砂の焼ける暑さを冒《おか》して外出したのだろう。僕は今日《こんにち》までその理由を誰にも話さずにいた。自分自身にもその時にはよく説明ができなかった。ただ遠くの方にある一種の不安が、僕の身体《からだ》を動かしに来たという漠《ばく》たる感じが胸に射《さ》したばかりであった。それが鎌倉で暮らした二日の間に、紛《まぎ》れもないある形を取って発展した結果を見て、僕を散歩に誘い出したのもやはり同じ力に違いないと今から思うのである。
僕が別荘へ帰って一時間|経《た》つか経たないうちに、僕の注意した門札と同じ名前の男がたちまち僕の前に現われた。田口の叔母は、高木さんですと云って叮嚀《ていねい》にその男を僕に紹介した。彼は見るからに肉の緊《しま》った血色の好い青年であった。年から云うと、あるいは僕より上かも知れないと思ったが、そのきびきびした顔つきを形容するには、是非共青年という文字が必要になったくらい彼は生気に充《み》ちていた。僕はこの男を始めて見た時、これは自然が反対を比較するために、わざと二人を同じ座敷に並べて見せるのではなかろうかと疑ぐった。無論その不利益な方面を代表するのが僕なのだから、こう改たまって引き合わされるのが、僕にはただ悪い洒落《しゃれ》としか受取られなかった。
二人の容貌《ようぼう》がすでに意地の好くない対照を与えた。しかし様子とか応対《おうたい》ぶりとかになると僕はさらにはなはだしい相違を自覚しない訳に行かなかった。僕の前にいるものは、母とか叔母とか従妹《いとこ》とか、皆親しみの深い血属ばかりであるのに、それらに取り捲《ま》かれている僕が、この高木に比べると、かえってどこからか客にでも来たように見えたくらい、彼は自由に遠慮なく、しかもある程度の品格を落す危険なしに己《おのれ》を取扱かう術《すべ》を心得ていたのである。知らない人を怖《おそ》れる僕に云わせると、この男は生れるや否や
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