聞いた二人は、驚ろいたような顔をしてとめにかかった。ことに千代子は躍起《やっき》になった。彼女は僕を捉《つら》まえて変人だと云った。母を一人残してすぐ帰る法はないと云った。帰ると云っても帰さないと云った。彼女は自分の妹や弟に対してよりも、僕に対しては遥《はる》かに自由な言葉を使い得る特権を有《も》っていた。僕は平生から彼女が僕に対して振舞うごとく大胆に率直に(ある時は善意ではあるが)威圧的に、他人に向って振舞う事ができたなら、僕のような他に欠点の多いものでも、さぞ愉快に世の中を渡って行かれるだろうと想像して、大いにこの小さな暴君《タイラント》を羨《うらや》ましがっていた。
「えらい権幕《けんまく》だね」
「あなたは親不孝よ」
「じゃ叔母さんに聞いて来るから、もし叔母さんが泊って行く方がいいって、おっしゃったら、泊っていらっしゃい。ね」
 百代子は仲裁を試みるような口調でこう云いながら、すぐ年寄の話している座敷の方へ立って行った。僕の母の意向は無論聞くまでもなかった。したがって百代子の年寄二人から齎《もた》らした返事もここに述べるのは蛇足《だそく》に過ぎない。要するに僕は千代子の捕虜になったのである。
 僕はやがてちょっと町へ出て来るという口実《いいまえ》の下《もと》に、午後の暑い日を洋傘《こうもり》で遮《さえ》ぎりながら別荘の附近を順序なく徘徊《はいかい》した。久しく見ない土地の昔を偲《しの》ぶためと云えば云えない事もないが、僕にそんな寂《さ》びた心持を嬉《うれ》しがる風流があったにしたところで、今はそれに耽《ふけ》る落ちつきも余裕《よゆう》も与えられなかった。僕はただうろうろとそこらの標札を読んで歩いた。そうして比較的立派な平屋建《ひらやだて》の門の柱に、高木の二字を認めた時、これだろうと思って、しばらく門前に佇《たたず》んだ。それから後《あと》は全く何の目的もなしになお緩漫《かんまん》な歩行を約十五分ばかり続けた。しかしこれは僕が自分の心に、高木の家を見るためにわざわざ表へ出たのではないと申し渡したと同じようなものであった。僕はさっさと引き返した。

        十六

 実を云うと、僕はこの高木という男について、ほとんど何も知らなかった。ただ一遍百代子から彼が適当な配偶を求めつつある由を聞いただけである。その時百代子が、御姉さんにはどうかしらと、ちょうど相
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