非いっしょに行けと勧めた。僕は魚の事よりも先刻《さっき》見た浴衣《ゆかた》がけの男の居所が知りたかった。
十五
「先刻誰だか男の人が一人座敷にいたじゃないか」
「あれ高木さんよ。ほら秋子さんの兄さんよ。知ってるでしょう」
僕は知っているともいないとも答えなかった。しかし腹の中では、この高木と呼ばれる人の何者かをすぐ了解した。百代子の学校|朋輩《ほうばい》に高木秋子という女のある事は前から承知していた。その人の顔も、百代子といっしょに撮《と》った写真で知っていた。手蹟《しゅせき》も絵端書《えはがき》で見た。一人の兄が亜米利加《アメリカ》へ行っているのだとか、今帰って来たばかりだとかいう話もその頃耳にした。困らない家庭なのだろうから、その人が鎌倉へ遊びに来ているぐらいは怪しむに足らなかった。よしここに別荘を持っていたところで不思議はなかった。が、僕はその高木という男の住んでいる家を千代子から聞きたくなった。
「ついこの下よ」と彼女は云ったぎりであった。
「別荘かい」と僕は重ねて聞いた。
「ええ」
二人はそれ以外を語らずに座敷へ帰った。座敷では母と叔母がまだ海の色がどうだとか、大仏がどっちの見当にあたるとかいうさほどでもない事を、問題らしく聞いたり教えたりしていた。百代子は千代子に彼らの父がその日の夕方までに来ると云って、わざわざ知らせて来た事を告げた。二人は明日《あす》魚を漁《と》りに行く時の楽みを、今|眼《ま》の当りに描《えが》き出して、すでに手の内に握った人のごとく語り合った。
「高木さんもいらっしゃるんでしょう」
「市《いっ》さんもいらっしゃい」
僕は行かないと答えた。その理由として、少し宅《うち》に用があって、今夜東京へ帰えらなければならないからという説明を加えた。しかし腹の中ではただでさえこう混雑《ごたごた》しているところへ、もし田口が吾一でも連れて来たら、それこそ自分の寝る場所さえ無くなるだろうと心配したのである。その上僕は姉妹《きょうだい》の知っている高木という男に会うのが厭《いや》だった。彼は先刻《さっき》まで二人と僕の評判をしていたが、僕の来たのを見て、遠慮して裏から帰ったのだと百代子から聞いた時、僕はまず窮屈な思いを逃《のが》れて好かったと喜こんだ。僕はそれほど知らない人を怖《こわ》がる性分なのである。
僕の帰ると云うのを
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