うちに白い浴衣《ゆかた》を着た男のいるのを見て、多分叔父が昨日《きのう》あたり東京から来て泊ってるのだろうと思った。ところが奥にいるものがことごとく僕らを迎えるために玄関へ出て来たのに、その男だけは少しも顔を見せなかった。もちろん叔父ならそのくらいの事はあるべきはずだと思って、座敷へ通って見ると、そこにも彼の姿は見えなかった。僕はきょろきょろしているうちに、叔母と母が汽車の中はさぞ暑かったろうとか、見晴しの好い所が手に入《い》って結構だとか、年寄の女だけに口数《くちかず》の多い挨拶《あいさつ》のやりとりを始めた。千代子と百代子は母のために浴衣を勧めたり、脱ぎ捨てた着物を晒干《さぼ》してくれたりした。僕は下女に風呂場へ案内して貰って、水で顔と頭を洗った。海岸からはだいぶ道程《みちのり》のある山手だけれども水は存外悪かった。手拭《てぬぐい》を絞《しぼ》って金盥《かなだらい》の底を見ていると、たちまち砂のような滓《おり》が澱《おど》んだ。
「これを御使いなさい」という千代子の声が突然|後《うしろ》でした。振り返ると、乾いた白いタオルが肩の所に出ていた。僕はタオルを受取って立ち上った。千代子はまた傍《そば》にある鏡台の抽出《ひきだし》から櫛《くし》を出してくれた。僕が鏡の前に坐《すわ》って髪を解かしている間、彼女は風呂場の入口の柱に身体《からだ》を持たして、僕の濡《ぬ》れた頭を眺めていたが、僕が何も云わないので、向うから「悪い水でしょう」と聞いた。僕は鏡の中を見たなり、どうしてこんな色が着いているのだろうと云った。水の問答が済んだとき、僕は櫛を鏡台の上に置いて、タオルを肩にかけたまま立ち上った。千代子は僕より先に柱を離れて座敷の方へ行こうとした。僕は藪《やぶ》から棒に後《うしろ》から彼女の名を呼んで、叔父はどこにいるかと尋ねた。彼女は立ち止まって振り返った。
「御父さんは四五日前ちょっといらしったけど、一昨日《おととい》また用が出来たって東京へ御帰りになったぎりよ」
「ここにゃいないのかい」
「ええ。なぜ。ことによると今日の夕方|吾一《ごいち》さんを連れて、またいらっしゃるかも知れないけども」
 千代子は明日《あした》もし天気が好ければ皆《みんな》と魚を漁《と》りに行くはずになっているのだから、田口が都合して今日の夕方までに来てくれなければ困るのだと話した。そうして僕にも是
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