僕からいうと、そう混雑《ごたごた》した所へ二人で押しかけるのは、世話にならないにしても気の毒で厭《いや》だった。けれども母は行きたいような顔をした。そうしてそれが僕のために行きたいような顔に見えるので僕はますます厭になった。が、とどのつまりとうとう行く事にした。こう云っても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、また意地の弱い男なのである。
十四
母は内気な性分なので平生《へいぜい》から余り旅行を好まなかった。昔風に重きをおかなければ承知しない厳格な父の生きている頃は外へもそうたびたびは出られない様子であった。現に僕は父と母が娯楽の目的をもっていっしょに家を留守にした例を覚えていない。父が死んで自由が利《き》くようになってからも、そう勝手な時に好きな所へ行く機会は不幸にして僕の母には与えられなかった。一人で遠くへ行ったり、長く宅《うち》を空《あ》けたりする便宜《べんぎ》を有《も》たない彼女は、母子《おやこ》二人の家庭にこうして幾年を老いたのである。
鎌倉へ行こうと思い立った日、僕は彼女のために一個の鞄《かばん》を携《たずさ》えて直行《ちょっこう》の汽車に乗った。母は車の動き出す時、隣に腰をかけた僕に、汽車も久しぶりだねと笑いながら云った。そう云われた僕にも実は余り頻繁《ひんぱん》な経験ではなかった。新らしい気分に誘われた二人の会話は平生《ふだん》よりは生々《いきいき》していた。何を話したか自分にもいっこう覚えのない事を、聞いたり聞かれたりして断続に任せているうちに車は目的地に着いた。あらかじめ通知をしてないので停車場《ステーション》には誰も迎《むかえ》に来ていなかったが、車を雇うとき某《なにがし》さんの別荘と注意したら、車夫はすぐ心得て引き出した。僕はしばらく見ないうちに、急に新らしい家の多くなった砂道を通りながら、松の間から遠くに見える畠中《はたなか》の黄色い花を美くしく眺《なが》めた。それはちょっと見るとまるで菜種の花と同じ趣《おもむき》を具《そな》えた目新らしいものであった。僕は車の上で、このちらちらする色は何だろうと考え抜いた揚句《あげく》、突然|唐茄子《とうなす》だと気がついたので独《ひと》りおかしがった。
車が別荘の門に着いた時、戸障子《としょうじ》を取り外《はず》した座敷の中に動く人の影が往来からよく見えた。僕はその
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