》いてくれた画《え》をまだ持っててよ」
なるほどそう云われて見ると、千代子に画を描いてやった覚《おぼえ》があった。けれどもそれは彼女が十二三の時の事で、自分が田口に買って貰った絵具と紙を僕の前へ押しつけて無理矢理に描かせたものである。僕の画道における嗜好《たしなみ》は、それから以後|今日《こんにち》に至るまで、ついぞ画筆《えふで》を握った試しがないのでも分るのだから、赤や緑の単純な刺戟《しげき》が、一通り彼女の眼に映ってしまえば、興味はそこに尽きなければならないはずのものであった。それを保存していると聞いた僕は迷惑そうに苦笑せざるを得なかった。
「見せて上げましょうか」
僕は見ないでもいいと断った。彼女は構わず立ち上がって、自分の室《へや》から僕の画を納めた手文庫を持って来た。
十
千代子はその中から僕の描いた画を五六枚出して見せた。それは赤い椿《つばき》だの、紫《むらさき》の東菊《あずまぎく》だの、色変りのダリヤだので、いずれも単純な花卉《かき》の写生に過ぎなかったが、要《い》らない所にわざと手を掛けて、時間の浪費を厭《いと》わずに、細かく綺麗《きれい》に塗り上げた手際《てぎわ》は、今の僕から見るとほとんど驚ろくべきものであった。僕はこれほど綿密であった自分の昔に感服した。
「あなたそれを描いて下すった時分は、今よりよっぽど親切だったわね」
千代子は突然こう云った。僕にはその意味がまるで分らなかった。画から眼を上げて、彼女の顔を見ると、彼女も黒い大きな瞳《ひとみ》を僕の上にじっと据《す》えていた。僕はどういう訳でそんな事を云うのかと尋ねた。彼女はそれでも答えずに僕の顔を見つめていた。やがていつもより小さな声で「でも近頃頼んだって、そんなに精出して描いては下さらないでしょう」と云った。僕は描くとも描かないとも答えられなかった。ただ腹の中で、彼女の言葉をもっともだと首肯《うけが》った。
「それでもよくこんな物を丹念にしまっておくね」
「あたし御嫁に行く時も持ってくつもりよ」
僕はこの言葉を聞いて変に悲しくなった。そうしてその悲しい気分が、すぐ千代子の胸に応《こた》えそうなのがなお恐ろしかった。僕はその刹那《せつな》すでに涙の溢《あふ》れそうな黒い大きな眼を自分の前に想像したのである。
「そんな下らないものは持って行かないがいいよ」
「いい
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