くらい陽気であった。本当のところをいうと、僕には少し陽気過ぎたのである。したがって腹の中が常に空虚な努力に疲れていた。鋭どい眼で注意したら、どこかに偽《いつわり》の影が射して、本来の自分を醜く彩《いろど》っていたろうと思う。そのうちで自分の気分と自分の言葉が、半紙の裏表のようにぴたりと合った愉快を感じた覚《おぼえ》がただ一遍ある。それは家例として年に一度か二度田口の家族が揃《そろ》って遊びに出る日の出来事であった。僕は知らずに奥へ通って、千代子一人が閑静に坐っているのを見て驚ろいた。彼女は風邪《かぜ》を引いたと見えて、咽喉《のど》に湿布をしていた。常にも似ない蒼《あお》い顔色も淋《さび》しく思われた。微笑しながら、「今日はあたし御留守居よ」と云った時、僕は始めて皆《みんな》出払った事に気がついた。
 その日彼女は病気のせいかいつもよりしんみり落ちついていた。僕の顔さえ見ると、きっと冷かし文句を並べて、どうしても悪口の云い合いを挑《いど》まなければやまない彼女が、一人ぼっちで妙に沈んでいる姿を見たとき、僕はふと可憐な心を起した。それで席に着くや否《いな》や、優しい慰藉《いしゃ》の言葉を口から出す気もなく自《おのず》から出した。すると千代子は一種変な表情をして、「あなた今日は大変優しいわね。奥さんを貰《もら》ったらそういう風に優しくしてあげなくっちゃいけないわね」と云った。遠慮がなくて親しみだけ持っていた僕は、今まで千代子に対していくら無愛嬌《ぶあいきょう》に振舞っても差支《さしつかえ》ないものと暗《あん》に自《みず》から許していたのだという事にこの時始めて気がついた。そうして千代子の眼の中《うち》にどこか嬉しそうな色の微《かす》かながら漂ようのを認めて、自分が悪かったと後悔した。
 二人はほとんどいっしょに生長したと同じような自分達の過去を振り返った。昔の記憶を語る言葉が互の唇《くちびる》から当時を蘇生《よみがえ》らせる便《たより》として洩《も》れた。僕は千代子の記憶が、僕よりも遥《はる》かに勝《すぐ》れて、細かいところまで鮮《あざ》やかに行き渡っているのに驚ろいた。彼女は今から四年前、僕が玄関に立ったまま袴《はかま》の綻《ほころび》を彼女に縫わせた事まで覚えていた。その時彼女の使ったのは木綿糸《もめんいと》でなくて絹糸であった事も知っていた。
「あたしあなたの描《か
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