るほど面倒になるだけだし、まあ大抵のところで纏まるなら纏めてしまおうかと思ってる。――縁談なんてものは妙なものでね。今だから御前に話すが、実は千代子の生れたとき、御前の御母さんが、これを市蔵の嫁に欲しいってね――生れ立ての赤ん坊をだよ」
 叔父はこの時笑いながら僕の顔を見た。
「母は本気でそう云ったんだそうです」
「本気さ。姉さんはまた正直な人だからね。実に好い人だ。今でも時々|真面目《まじめ》になって叔母さんにその話をするそうだ」
 叔父は再び大きな声を出して笑った。僕ははたして叔父がこう軽くこの事件を解釈しているなら、母のために少し弁じてやろうかと考えた。が、もしこれが世慣《よな》れた人の巧妙な覚《さと》らせぶりだとすれば、一口でも云うだけが愚《おろか》だと思い直して黙った。叔父は親切な人でまた世慣《よな》れた人である。彼のこの時の言葉はどちらの眼で見ていいのか、僕には今もって解らない。ただ僕がその時以来千代子を貰わない方へいよいよ傾いたのは事実である。

        九

 それから二カ月ばかりの間僕は田口の家へ近寄らなかった。母さえ心配しなければ、それぎり内幸町へは足を向けずにすましたかも知れなかった。たとい母が心配するにしても、単に彼女に対する掛念《けねん》だけが問題なら、あるいは僕の気随《きずい》をいざという極点まで押し通したかも知れなかった。僕はそんな[#「そんな」は底本では「そんに」]風に生みつけられた男なのである。ところが二カ月の末になって、僕は突然自分の片意地を翻《ひる》がえさなければ不利だという事に気がついた。実を云うと、僕と田口と疎遠になればなるほど、母はあらゆる機会を求めて、ますます千代子と接触するように力《つと》め出したのである。そうしていつなんどき僕の最も恐れる直接の談判を、千代子に向って開かないとも限らないように、漸々《ぜんぜん》形勢を切迫させて来たのである。僕は思い切って、この危機を一帳場《ひとちょうば》先へ繰り越そうとした。そうしてその決心と共にまた田口の敷居を跨《また》ぎ出した。
 彼らの僕を遇する態度に固《もと》より変りはなかった。僕の彼らに対する様子もまた二カ月前の通りであった。僕と彼らとは故《もと》のごとく笑ったり、ふざけたり、揚足《あげあし》の取りっくらをしたりした。要するに僕の田口で費《つい》やした時間は、騒がしい
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