》いでおこうとする用心に過ぎなかった。ところがいざ改たまって母にそれを切り出そうとすると、ただ自分の我《が》を通すために、弱い親の自由を奪うのは残酷な子に違ないという心持が、どこにか萌《きざ》すので、ついそれなりにしてやめる事が多かった。もっとも年寄の眉《まゆ》を曇らすのがただ情《なさけ》ないばかりでやめたとも云われない。これほど親しい間柄でさえ今まで思い切ったところを千代子に打ち明け得なかった母の事だから、たといこのままにしておいても、まあ当分は大丈夫だろうという考が、母に対する僕を多少|抑《おさ》えたのである。
 それで僕は千代子に関して何という明瞭《めいりょう》な所置も取らずに過ぎた。もっともこういう不安な状態で日を送った時期にも、まるで田口の家と打絶えた訳ではなかったので、会《たま》には単に母の喜こぶ顔を見るだけの目的をもって内幸町まで電車を利用した覚さえあったのである。そういうある日の晩、僕は久しぶりに千代子から、習い立ての珍らしい手料理を御馳走《ごちそう》するからと引止められて、夕飯の膳《ぜん》についた。いつも留守《るす》がちな叔父がその日はちょうど内にいて、食事中例の気作《きさく》な話をし続けにしたため、若い人の陽気な笑い声が障子《しょうじ》に響くくらい家の中が賑《にぎ》わった。飯が済んだ後《あと》で、叔父はどういう考か、突然僕に「市《いっ》さん久しぶりに一局やろうか」と云い出した。僕はさほど気が進まなかったけれどもせっかくだから、やりましょうと答えて、叔父と共に別室へ退《しりぞ》いた。二人はそこで二三番打った。固《もと》より下手と下手の勝負なので、時間のかかるはずもなく、碁石《ごいし》を片づけてもまだそれほど遅くはならなかった。二人は煙草《たばこ》を呑《の》みながらまた話を始めた。その時僕は適当な機会を利用してわざと叔父に「千代子さんの縁談はまだ纏《まと》まりませんか」と聞いた。それは固より僕が千代子に対して他意のないという事を示すためであった。がまた一方では、一日も早くこの問題の解決が着けば、自分も安心だし、千代子も幸福だと考えたからである。すると叔父はさすがに男だけあって、何の躊躇《ちゅうちょ》もなくこう云った。――
「いやまだなかなかそう行きそうもない。だんだんそんな話を持って来てくれるものはあるが、何しろむずかしくって弱る。その上調べれば調べ
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