わ、持って行ったって、あたしのだから」
彼女はこう云いつつ、赤い椿や紫の東菊を重ねて、また文庫の中へしまった。僕は自分の気分を変えるためわざと彼女にいつごろ嫁に行くつもりかと聞いた。彼女はもう直《じき》に行くのだと答えた。
「しかしまだきまった訳じゃないんだろう」
「いいえ、もうきまったの」
彼女は明らかに答えた。今まで自分の安心を得る最後の手段として、一日《いちじつ》も早く彼女の縁談が纏《まと》まれば好いがと念じていた僕の心臓は、この答と共にどきんと音のする浪《なみ》を打った。そうして毛穴から這《は》い出すような膏汗《あぶらあせ》が、背中と腋《わき》の下を不意に襲《おそ》った。千代子は文庫を抱《だ》いて立ち上った。障子《しょうじ》を開けるとき、上から僕を見下《みおろ》して、「嘘《うそ》よ」と一口|判切《はっきり》云い切ったまま、自分の室《へや》の方へ出て行った。
僕は動く考《かんがえ》もなく故《もと》の席に坐っていた。僕の胸には忌々《いまいま》しい何物も宿らなかった。千代子の嫁に行く行かないが、僕にどう影響するかを、この時始めて実際に自覚する事のできた僕は、それを自覚させてくれた彼女の翻弄《ほんろう》に対して感謝した。僕は今まで気がつかずに彼女を愛していたのかも知れなかった。あるいは彼女が気がつかないうちに僕を愛していたのかも知れなかった。――僕は自分という正体が、それほど解り悪《にく》い怖《こわ》いものなのだろうかと考えて、しばらく茫然《ぼうぜん》としていた。するとあちらの方で電話がちりんちりんと鳴った。千代子が縁伝いに急ぎ足でやって来て、僕にいっしょに電話をかけてくれと頼んだ。僕にはいっしょにかけるという意味が呑み込めなかったが、すぐ立って彼女と共に電話口へ行った。
「もう呼び出してあるのよ。あたし声が嗄《か》れて、咽喉《のど》が痛くって話ができないからあなた代理をしてちょうだい。聞く方はあたしが聞くから」
僕は相手の名前も分らない、また向うの話の通じない電話をかけるべく、前屈《まえこご》みになって用意をした。千代子はすでに受話器を耳にあてていた。それを通して彼女の頭へ送られる言葉は、独《ひと》り彼女が占有するだけなので、僕はただ彼女の小声でいう挨拶《あいさつ》を大きくして訳も解らず先方へ取次ぐに過ぎなかった。それでも始の内は滑稽《こっけい》も構わず暇
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