》を見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
医者はこう云ったがまた一筒《いっとう》の注射を心臓部に試みた。固《もと》よりそれは何の手段にもならなかった。松本は透《す》き徹《とお》るような娘の肌に針の突き刺される時、自《おのず》から眉間《みけん》を険《けわ》しくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯《からしゆ》でも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡《しろうとりょうけん》で聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔には毫《ごう》も奨励《しょうれい》の色が出なかった。
やがて熱い湯を盥《たらい》へ汲《く》んで、湯気の濛々《もうもう》と立つ真中へ辛子《からし》を一袋|空《あ》けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取り除《の》けた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水《うめ》ましょう。余り熱いと火傷《やけど》でもなさるといけませんから」と注意した。
医者の手に抱《だ》き取られた宵子は、湯の中に五六分|浸《つ》けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。余《あん》まり長くなると……」と云いながら、医者は宵子を盥《たらい》から出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧《ていねい》に拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」と恨《うら》めしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
小《ち》さい蒲団《ふとん》と小さい枕がやがて宵子のために戸棚《とだな》から取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿を眺《なが》めた千代子は、わっと云って突伏《つっぷ》した。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を喫《た》べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
千代子は途切《とぎ》れ途切れの言葉で、先刻《さっき》自分が夕飯《ゆうめし》の世話をしていた時の、平生《
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