と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝《ひざ》の前に俯伏《うつぶせ》になった。
「どうしたの」
千代子は何の気もつかずに宵子を抱《だ》き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応《てごたえ》がぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。
四
宵子《よいこ》はうとうと寝入《ねい》った人のように眼を半分閉じて口を半分|開《あ》けたまま千代子の膝《ひざ》の上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度|叩《たた》いたが、何の効目《ききめ》もなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
母は驚ろいて箸《はし》と茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入《はい》って来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向《あおむけ》にして見ると、唇《くちびる》にもう薄く紫の色が注《さ》していた。口へ掌《てのひら》を当てがっても、呼息《いき》の通う音はしなかった。母は呼吸《こきゅう》の塞《つま》ったような苦しい声を出して、下女に濡手拭《ぬれてぬぐい》を持って来さした。それを宵子の額に載《の》せた時、「脈《みゃく》はあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸《てくび》を握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」と蒼《あお》い顔をして泣き出した。母は茫然《ぼうぜん》とそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人《よつたり》とも客間の方へ馳《か》け出した。その足音が廊下の端《はずれ》で止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、蔽《お》い被《かぶ》さるように細君と千代子の上から宵子を覗《のぞ》き込んだが、一目見ると急に眉《まゆ》を寄せた。
「医者は……」
医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能《ききめ》もなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人の唇《くちびる》を洩《も》れた。そうして絶望を怖《おそ》れる怪しい光に充《み》ちた三人の眼が一度に医者の上に据《す》えられた。鏡を出して瞳孔《どうこう》を眺めていた医者は、この時宵子の裾《すそ》を捲《まく》って肛門《こうもん
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