「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
「生意気《なまいき》云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
二人がこんな話をしていると、ただいまこの方《かた》が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭《いや》よまたこないだみたいに、西洋|煙草《たばこ》の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯が点《とも》っていた。台所ではすでに夕飯《ゆうめし》の支度を始めたと見えて、瓦斯七輪《ガスしちりん》が二つとも忙がしく青い※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》を吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女は小《ち》さい朱塗の椀《わん》と小皿に盛った魚肉とを盆の上に載《の》せて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこは家《うち》のものの着更《きがえ》をするために多く用いられる室《へや》なので、箪笥《たんす》が二つと姿見が一つ、壁から飛び出したように据《す》えてあった。千代子はその姿見の前に玩具《おもちゃ》のような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠《おまちどお》さま」
千代子が粥《かゆ》を一匙《ひとさじ》ずつ掬《すく》って口へ入れてやるたびに、宵子は旨《おい》しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強《し》いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念《たんねん》に匙の持ち方を教えた。宵子は固《もと》より極《きわ》めて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供《おそなえ》のような平たい頭を傾《かし》げて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう?
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