ほ》めると、千代子は嬉《うれ》しそうに笑いながら、子供の後姿を眺《なが》めて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図《さしず》した。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つ這《ばい》になった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子は頸《くび》を下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴《ふちょう》であった。後《うしろ》に立って見ていた千代子は小《ち》さい唇《くちびる》から出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。

        三

 そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かの華《はな》やかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、巴《ともえ》の紋《もん》のついた陣太鼓《じんだいこ》のようなものを持って来て、宵子《よいこ》さん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着《きんちゃく》のような恰好《かっこう》をした赤い毛織の足袋《たび》が廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋の紐《ひも》の先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前が編《あ》んでやったのだったね」
「ええ可愛《かわい》らしいわね」
 千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主《からぼうず》になった梧桐《ごとう》をしたたか濡《ぬ》らし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越《ガラスごし》の雨の色を眺めて、手焙《てあぶり》に手を翳《かざ》した。
「芭蕉《ばしょう》があるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花《さざんか》が散って、青桐《あおぎり》が裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三《つねぞう》は閑人《ひまじん》だって云われるのよ」
前へ 次へ
全231ページ中126ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング