それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過《ひるすぎ》であった。千代子は松本の好きな雲丹《うに》を母からことづかって矢来《やらい》へ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、緩《ゆっ》くり腰を落ちつけた。松本には十三になる女を頭《かしら》に、男、女、男と互違《たがいちがい》に順序よく四人の子が揃《そろ》っていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭に華《はな》やかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子《よいこ》を、指環に嵌《は》めた真珠のように大事に抱《だ》いて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、漆《うるし》のように濃い大きな眼を有《も》って、前の年の雛《ひな》の節句の前の宵《よい》に松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛《かわい》がっていた。来るたんびにきっと何か玩具《おもちゃ》を買って来てやった。ある時は余り多量に甘《あま》いものをあてがって叔母から怒《おこ》られた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側《えんがわ》へ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩《けんか》でもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯《からか》った。
 その日も千代子は坐ると直《すぐ》宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代《さかやき》を剃《そ》った事がないので、頭の毛が非常に細く柔《やわら》かに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢《うるおい》の多い紫《むらさき》を含んでぴかぴか縮《ちぢ》れ上っていた。「宵子さんかんかん結《い》って上げましょう」と云って、千代子は鄭寧《ていねい》にその縮れ毛に櫛《くし》を入れた。それから乏しい片鬢《かたびん》を一束|割《さ》いて、その根元に赤いリボンを括《くく》りつけた。宵子の頭は御供《おそなえ》のように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅《かたすみ》へ乗せて、リボンの端《はじ》を抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねと賞《
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