問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人の後《あと》を跟《つ》けるなんて」
「私も少し懲《こ》りました。これからはもうやらないつもりです」
 この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑《にがわら》いをしていた。それが敬太郎には軽蔑《けいべつ》の意味にも憐愍《れんみん》の意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
 根本義に溯《さかの》ぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕の伴《つ》れていた若い女は高等淫売《こうとういんばい》だって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
 敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
 敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮を憚《はば》かるほどの男ではなかった。けれども松本が強《し》いてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物が潜《ひそ》んでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶《あいさつ》に困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。

        十三

「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売《こうとういんばい》だと云う勇気が出悪《でにく》くなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
 こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉してい
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