かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたの後《あと》を跟《つ》けてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものような緩《ゆる》い口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
 松本は始めて、少し驚いた声の中《うち》に、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。

        十二

「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口|要作《ようさく》ですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
 こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎《けいたろう》は田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張《みはり》に出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末《てんまつ》を包まず打ち明けた。固《もと》よりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論|布衍《ふえん》の煩《わずら》わしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎を遮《さえ》ぎらなかった。話が済んでからも、直《すぐ》とは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早く詫《あや》まるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口を利《き》き始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
 こういった主人の顔を見ると、呆《あき》れ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんな愚《ぐ》な事を引き受けたのです」
 物数奇《ものずき》から引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食
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