て行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、柔《やわら》かい座蒲団《ざぶとん》の上を滑《すべ》り下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》しただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好《かっこう》のいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮《メーズ》の奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日《きょう》田口での獲物《えもの》は松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜《さくそう》した事実を自分のために締《し》め括《くく》っている妙な嚢《ふくろ》のように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄|悪《にく》い人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美《たんび》の声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前に坐《すわ》っている間、彼は始終《しじゅう》何物にか縛《しば》られて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視の下《もと》に置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでに懐《なつ》かし味の籠《こも》ったような松本を想像してやまなかった。
八
翌朝《よくあさ》さっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面に濡《ぬ》れていた。屋根瓦《やねがわら》に徹《とお》るような佗《わ》びしい色をしばらく眺《なが》めていた敬太郎《けいたろう》は、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起る
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