した手紙を敬太郎《けいたろう》に読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意に価《あたい》する事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三《まつもとつねぞう》様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目《まじめ》になって松本恒三様の五字を眺《なが》めたが、肥《ふと》った締《しま》りのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほど拙《せつ》らしくできていた。
「そう感心していつまでも眺《なが》めていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつは私《わたし》の失念だ」
 田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味《まず》くって大きなところは土橋《どばし》の大寿司流《おおずしりゅう》とでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
「御差支《おさしつかえ》さえなければ、おついでに一本書いていただいても宜《よろ》しゅうございます」と敬太郎も冗談《じょうだん》半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫《ローマン》―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。私《わたし》ゃ学問がないから、今頃|流行《はや》るハイカラな言葉を直《すぐ》忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
 敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道《ひど》く冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状を懐《ふところ》に収めて、「では二三日|内《うち》にこれを持っ
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