。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更《まんざら》の冗談《じょうだん》とも思えなかったので、彼は紹介状を携《たずさ》えて本当に眉間《みけん》の黒子《ほくろ》と向き合って話して見ようかという料簡《りょうけん》を起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
「宜《い》いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会って直《じか》に研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩|後《あと》を跟《つ》けましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云っても宜《よ》うござんす。私《わたし》に遠慮は要《い》らないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のない奴《やつ》だと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分|会《あ》い悪《にく》い方《ほう》なんだから、そんな事をむやみに喋《しゃ》べろうものなら、直《すぐ》帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
敬太郎は固《もと》より畏《かしこ》まりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折《なかおれ》の男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。
七
田口は硯箱《すずりばこ》と巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛《なあて》を認《したた》め終ると、「ただ通り一遍の文言《もんごん》だけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙《てあぶり》の前に翳《かざ》
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