責任のあるなしにかかわらず、纏《まと》まった形となって頭の中には現われ悪《にく》かった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
 田口はただ微笑した。そこへ例の袴《はかま》を穿《は》いた書生が、一枚の名刺を盆に載《の》せて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻《さっき》からよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好い機《しお》に、もうここで切り上げようと思って身繕《みづくろ》いにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれを遮《さえ》ぎった。そうして敬太郎の辟易《へきえき》するのに頓着《とんじゃく》なくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭《めいりょう》に答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだ辛《つら》い思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
 田口の最後と断《ことわ》ったこの問に対しても、敬太郎は固《もと》より満足な返事を有《も》っていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何《おなに》とかいう言葉がきっとどこかへ交《まじ》って来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
 田口はこの答を聞いて、手焙《てあぶり》の胴に当てた手を動かしながら、拍子《ひょうし》を取るように、指先で桐《きり》の縁《ふち》を敲《たた》き始めた。それをしばらくくり返した後《あと》で、「どうしたんだか余《あん》まり要領を得ませんね」と云ったが、直《すぐ》言葉を継《つ》いで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊《うかつ》に恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得
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