ば夫婦だとか、兄弟《きょうだい》だとか、またはただの友達だとか、情婦《いろ》だとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」
五
敬太郎《けいたろう》の胸にもこの疑《うたがい》は最初から多少|萌《きざ》さないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼を操《あやつ》って、それがために偵察《ていさつ》の興味が一段と鋭どく研《と》ぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女《なんにょ》の間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血を有《も》った青年の常として、この観察点から男女《なんにょ》を眺《なが》めるときに、始めて男女らしい心持が湧《わ》いて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切《はっきり》分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮《あざ》やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対《いっつい》の男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れを抱《いだ》くほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人《いちにん》であったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢《とし》の上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこう弛《ゆる》んでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、
前へ
次へ
全231ページ中104ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング