ば、「どうですか」という他《ひと》を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠《くちごも》った後《あと》、
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間《みけん》に黒子《ほくろ》がありましたか」
敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服《なり》もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折《なかおれ》に、霜降《しもふり》の外套《がいとう》を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後《おく》れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過《すぎ》のようでした」
「よっぽど過《すぎ》。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
今まで穏《おだ》やかに機嫌《きげん》よく話していた長者《ちょうしゃ》から突然こう手厳《てきび》しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。
三
敬太郎《けいたろう》は今まで下町出《したまちで》の旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶《あいさつ》も有《も》っていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐ崩《くず》して、
「そりゃ私《わたし》のために大変都合が好かった」と機嫌《きげん》の好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡《しゅんじゅん》した。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支《さしつかえ》ない」
田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆《てさげたばこぼん》の抽出《ひきだし》を開けると、その中から角《つの》でできた細長い耳掻《みみかき》を捜《さが》し出した。それを右の耳の中に入れて、さも痒《か》ゆ
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