ん》も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中に畏《かしこ》まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物《かけもの》の価額《ねだん》を想像したり、手焙の縁《ふち》を撫《な》で廻したり、あるいは袴《はかま》の膝《ひざ》へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲《まわり》があまり綺麗《きれい》に調《ととの》っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚《ちがいだな》の上にある画帖《がじょう》らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断《ことわ》るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後《あと》で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶《あいさつ》を一と口と、それに添えた叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》を一つした。それからすぐ昨日《きのう》の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体《からだ》も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕《よゆう》の貯蔵庫でもあるように、けっして周章《あわて》て探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極《しごく》面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗《あん》に彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳《わけ》はまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日《きのう》は。旨《うま》く行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれ
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