と云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後から宵《よい》へかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告に纏《まと》める段になると、自分の引き受けた仕事は成効《せいこう》しているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖《ステッキ》の御蔭《おかげ》を蒙《こうむ》っているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着《よぎ》を剥《は》ぐって跳《は》ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日《きのう》の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室《へや》に上《のぼ》った。そこの窓を潔《いさ》ぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟《しげき》した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力《つと》めて実際的に思慮を回《めぐ》らした。
二
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎《けいたろう》は少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急《せ》くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これから直《すぐ》行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後《あと》で、差支《さしつかえ》ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予《ゆうよ》なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄《げた》が一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物《かけもの》が二幅掛かっていた。湯呑《ゆのみ》のような深い茶碗《ちゃわん》に、書生が番茶を一杯|汲《く》んで出した。桐《きり》を刳《く》った手焙《てあぶり》も同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団《ざぶと
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