うとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくに若《し》くはないという気になって、早速|給仕《ボーイ》を呼んでビルを請求した。
 男と女はまだ落ちついて話していた。しかし二人の間に何というきまった題目も起らないので、それを種に意見や感情の交換《とりやり》も始まる機会《おり》はなく、ただだらしのない雲のようにそれからそれへと流れて行くだけに過ぎなかった。男の特徴に数えられた眉《まゆ》と眉の間の黒子《ほくろ》なども偶然女の口に上《のぼ》った。
「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんな所《とこ》にあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」
 敬太郎はこの時|指洗椀《フィンガーボール》の水に自分の顔の映るほど下を向いて、両手で自分の米噛《こめかみ》を隠すように抑《おさ》えながら、くすくすと笑った。ところへ給仕が釣銭を盆に乗せて持って来た。敬太郎はそっと立って目立たないように階段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》までおとなしく足を運ぶと、そこに立っていた給仕が大きな声で、「御立あち」と下へ知らせた。同時に敬太郎は先刻《さっき》給仕に預けた洋杖《ステッキ》を取って来るのを忘れた事に気がついた。その洋杖はいまだに室《へや》の隅《すみ》に置いてある帽子掛の下に突き込まれたまま、女の長いコートの裾《すそ》に隠されていた。敬太郎は室の中にいる男女《なんにょ》を憚《はば》かるように、抜き足で後戻りをして、静かにそれを取り出した。彼が蛇の頭を握った時、すべすべした羽二重《はぶたえ》の裏と、柔かい外套《がいとう》の裏が、優しく手の甲に触れるのを彼は感じた。彼はまた爪先で歩かないばかりに気をつけて階段の上まで来ると、そこから急に調子を変えて、とん、とん、とんと刻《きざ》み足《あし》に下へ駆《か》け下りた。表へ出るや否や電車通を直ぐ向うへ横切った。その突き当りに、大きな古着屋のような洋服屋のような店があるので、彼はその店の電灯の光を後《うしろ》にして立った。こうしてさえいれば料理店から出る二人が大通りを右へ曲ろうが、左へ折れよう
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