が、または中川の角に添って連雀町《れんじゃくちょう》の方へ抜けようが、あるいは門《かど》からすぐ小路《こうじ》伝いに駿河台下《するがだいした》へ向おうが、どっちへ行こうと見逃《みのが》す気遣《きづかい》はないと彼は心丈夫に洋杖《ステッキ》を突いて、目指す家の門口《かどぐち》を見守っていた。
 彼は約十分ばかり待った後で、注意の焼点《しょうてん》になる光の中《うち》に、いっこう人影が射さないのを不審に思い始めた。やむを得ず二階を眺《なが》めてその窓だけ明るくなった奥を覗《のぞ》くように、彼らの早く席を立つ事を祈った。そうして待ち草臥《くたび》れた眼を移すごとに、屋根の上に広がる黒い空を仰いだ。今まで地面の上を照らしている人間の光ばかりに欺《あざ》むかれて、まるでその存在を忘れていたこの大きな夜は、暗い頭の上で、先刻《さっき》から寒そうな雨を醸《かも》していたらしく、敬太郎の心を佗《わ》びしがらせた。ふと考えると、今までは自分に遠慮してただの話をしていた二人が、自分の立ったのを幸いに、自分の役目として是非聞いておかなければならないような肝心《かんじん》の相談でもし始めたのではなかろうか。彼はこの疑惑と共に黒い空を仰ぎながら、そのうちに二人の向き合った姿をありありと認めた。

        三十五

 彼はあまり注意深く立ち廻って、かえって洋食店の門を早く出過ぎたのを悔《くや》んだ。けれども二人が彼に気兼《きがね》をする以上は、たとい同じ席にいつまでも根が生えたように腰を据《す》えていたところで、やっぱり普通の世間話よりほかに聞く訳には行かないのだから、よし今まで坐《すわ》ったまま動かないものと仮定しても、その結果は早く席を立ったと、ほぼ同じ事になるのだと思うと、彼は寒いのを我慢しても、同じ所に見張っているより仕方なかった。すると帽子の廂《ひさし》へ雨が二雫《ふたしずく》ほど落ちたような気がするので、彼はまた仰向《あおむ》いて黒い空を眺めた。闇《やみ》よりほかに何も眼を遮《さえ》ぎらない頭の上は、彼の立っている電車通と違って非常に静であった。彼は頬《ほお》の上に一滴《いってき》の雨を待ち受けるつもりで、久しく顔を上げたなり、恰好《かっこう》さえ分らない大きな暗いものを見つめている間《あいだ》に、今にも降り出すだろうという掛念《けねん》をどこかへ失なって、こんな落ちついた
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