》しまなければならないので、眼のやりどころに困るという風で、ただ正面をぽかんと見廻した。すると勝手の上《あが》り口《くち》の方から、給仕《ボーイ》が白い皿を二つ持って入って来て、それを古いのと引き更《か》えに、二人の前へ置いて行った。
「小鳥だよ。食べないか」と男が云った。
「妾《あたし》もうたくさん」
女は焼いた小鳥に手を触れない様子であった。その代り暇のできた口を男よりは余計動かした。二人の問答から察すると、女の男にくれと逼《せま》ったのは珊瑚樹《さんごじゅ》の珠《たま》か何からしい。男はこういう事に精通しているという口調《くちょう》で、いろいろな説明を女に与えていた。が、それは敬太郎には興味もなければ、解りもしない好事家《こうずか》の嬉《うれ》しがる知識に過ぎなかった。練物《ねりもの》で作ったのへ指先の紋《もん》を押しつけたりして、時々|旨《うま》くごまかした贋物《がんぶつ》があるが、それは手障《てざわ》りがどこかざらざらするから、本当の古渡《こわた》りとは直《すぐ》区別できるなどと叮嚀《ていねい》に女に教えていた。敬太郎は前後《あとさき》を綜合《すべあ》わして、何でもよほど貴《たっ》とい、また大変珍らしい、今時そう容易《たやす》くは手に入らない時代のついた珠《たま》を、女が男から貰《もら》う約束をしたという事が解った。
「やるにはやるが、御前あんなものを貰って何《なん》にする気だい」
「あなたこそ何になさるの。あんな物を持ってて、男の癖に」
三十四
しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物《くだもの》にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎《けいたろう》に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出た後《あと》の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。後《おく》れて席を立つにしても、巻煙草《まきたばこ》を一本吸わない先に、夜と人と、雑沓《ざっとう》と暗闇《くらやみ》の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んで後《あと》から喰付《くっつ》いて行こ
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