し相手を怒《おこ》らせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆《あおえんどう》が運ばれる時分には、女もとうとう我《が》を折り始めた。敬太郎は心の内で、女がどこまでも剛情を張るか、でなければ男が好加減《いいかげん》に降参するか、どっちかになればいいがと、ひそかに祈っていたのだから、思ったほど女の強くないのを発見した時は少なからず残念な気がした。せめて二人の間に名を出す必要のないものとして略されつつあった目的地だけでも、何かの機会《はずみ》に小耳に挟《はさ》んでおきたかったが、いよいよ話が纏《まと》まらないとなると、男女《なんにょ》の問答は自然ほかへ移らなければならないので、当分その望みも絶えてしまった。
「じゃ行かなくってもいいから、あれをちょうだい」と、やがて女が云い出した。
「あれって、ただあれじゃ分らない」
「ほらあれよ。こないだの。ね、分ったでしょう」
「ちっとも分らない」
「失敬ね、あなたは。ちゃんと分ってる癖に」
 敬太郎はちょっと振り向いて後《うしろ》が見たくなった。その時|階段《はしごだん》を踏む大きな音が聞こえて、三人ばかりの客がどやどやと一度に上《あが》って来た。そのうちの一人はカーキー色の服に長靴を穿《は》いた軍人であった。そうして床《ゆか》の上を歩く音と共に、腰に釣るした剣をがちゃがちゃ鳴らした。三人は上って左側の室《へや》へ案内された。この物音が例の男と女の会話を攪《か》き乱したため、敬太郎の好奇心もちらつく剣の光が落ちつくまで中途に停止していた。
「この間見せていただいたものよ。分って」
 男は分ったとも分らないとも云わなかった。敬太郎には無論想像さえつかなかった。彼は女がなぜ淡泊《たんぱく》に自分の欲しいというものの名を判切《はっきり》云ってくれないかを恨《うら》んだ。彼は何とはなしにそれが知りたかったのである。すると、
「あんなもの今ここに持ってるもんかね」と男が云った。
「誰もここに持ってるって云やしないわ。ただちょうだいって云うのよ。今度《こんだ》でいいから」
「そんなに欲しけりゃやってもいい。が……」
「あッ嬉《うれ》しい」
 敬太郎はまた振り返って女の顔が見たくなった。男の顔もついでに見ておきたかった。けれども女と一直線になって、背中合せに坐っている自分の位置を考えると、この際そんな盲動は慎《つつ
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