しろ気高い風を帯びていた。敬太郎はそれなり背中を彼の方に向けて自分の席に着いたが、探偵という文字に普通付着している意味を心のうちで考え出して、この男の風采《ふうさい》態度《たいど》と探偵とはとても釣り合わない性質のものだという気がした。敬太郎から見ると、この人は探偵してしかるべき何物をも彼の人相の上に有《も》っていなかったのである。彼の顔の表に並んでいる眼鼻口のいずれを取っても、その奥に秘密を隠そうとするには、余りにできが尋常過ぎたのである。彼は自分の席へ着いた時、田口から引き受けたこの宵《よい》の仕事に対する自分の興味が、すでに三分の一ばかり蒸発したような失望を感じた。第一こんな性質《たち》の仕事を田口から引き受けた徳義上の可否さえ疑がわしくなった。
 彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭《パン》に手も触《ふ》れずにいた。男と女は彼らの傍《そば》に坐った新らしい客に幾分か遠慮の気味で、ちょっとの間《ま》話を途切らした。けれども敬太郎の前に暖められた白い皿が現われる頃から、また少し調子づいたと見えて、二人の声が互違《たがいちがい》に敬太郎の耳に入《い》った。――
「今夜はいけないよ。少し用があるから」
「どんな用?」
「どんな用って、大事な用さ。なかなかそう安くは話せない用だ」
「あら好くってよ。妾《あたし》ちゃんと知ってるわ。――さんざっぱら他《ひと》を待たした癖に」
 女は少し拗《す》ねたような物の云い方をした。男は四辺《あたり》に遠慮する風で、低く笑った。二人の会話はそれぎり静かになった。やがて思い出したように男の声がした。
「何しろ今夜は少し遅いから止そうよ」
「ちっとも遅かないわ。電車に乗って行きゃあ直《じき》じゃありませんか」
 女が勧めている事も男が躊躇《ちゅうちょ》している事も敬太郎にはよく解った。けれども彼らがどこへ行くつもりなのだか、その肝心《かんじん》な目的地になると、彼には何らの観念もなかった。

        三十三

 もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎《けいたろう》は自分の前に残された皿の上の肉刀《ナイフ》と、その傍に転がった赤い仁参《にんじん》の一切《ひときれ》を眺《なが》めていた。女はなお男を強《し》いる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って逃《のが》れていた。しか
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