ど》の記憶さえ有《も》っていた。
 二人の行先については、これという明らかな希望も予期も無かったが、少しは紫《むらさき》がかった空気の匂う迷路《メーズ》の中に引き入れられるかも知れないくらいの感じが暗《あん》に働らいてこれまで後を跟《つ》けて来た敬太郎には、馬鈴薯《じゃがいも》や牛肉を揚げる油の臭《におい》が、台所からぷんぷん往来へ溢《あふ》れる西洋料理屋は余りに平凡らしく見えた。けれども自分のとても近寄れない幽玄な所へ姿を隠して、それぎり出て来ないよりは、遥《はる》かに都合が好いと考え直した彼は、二人の身体が、誰にでも近寄る事のできる、普通の洋食店のペンキの奥に囲われているのをむしろ心丈夫だと覚《さと》った。幸い彼はこのくらいな程度の家で、冬空の外気に刺戟《しげき》された食慾を充《み》たすに足るほどの財布を懐中していた。彼はすぐ二人の後《あと》を追ってそこの二階へ上《のぼ》ろうとしたが、電灯の強く往来へ射《さ》す門口《かどぐち》まで来た時、ふと気がついた。すでに女から顔を覚えられた以上、ほとんど同時に一つ二階へ押し上っては不味《まず》い。ひょっとするとこの人は自分を跟《つ》けて来たのだという疑惑を故意《ことさら》先方に与える訳になる。
 敬太郎は何気ない振をして、往来へ射す光を横切ったまま、黒い小路《こうじ》を一丁ばかり先へ歩いた。そうしてその小路の尽きる坂下からまた黒い人となって、自分の影法師を自分の身体《からだ》の中へ畳み込んだようにひっそりと明るい門口まで帰って来た。それからその門《かど》を潜《くぐ》った。時々来た事があるので、彼はこの家《うち》の勝手をほぼ承知していた。下には客を通す部屋がなくって、二階と三階だけで用を弁じているが、よほど込み合わなければ三階へは案内しない、大抵は二階で済むのだから、上《あが》って右の奥か、左の横にある広間を覗《のぞ》けば、大抵二人の席が見えるに違ない、もしそこにいなかったら表の方の細長い室《へや》まで開《あ》けてやろうぐらいの考で、階段《はしごだん》を上りかけると、白服の給仕《ボーイ》が彼を案内すべく上り口に立っているのに気がついた。

        三十二

 敬太郎《けいたろう》は手に持った洋杖《ステッキ》をそのままに段々を上《のぼ》り切ったので、給仕は彼の席を定める前に、まずその洋杖を受取った。同時にこちらへと云い
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