三十一
「だって余《あん》まりだわ。こんなに人を待たしておいて」
敬太郎《けいたろう》の耳に入った第一の言葉は、女の口から出たこういう意味の句であったが、これに対する男の答は全く聞き取れなかった。それから五六間行ったと思う頃、二人の足が急に今までの歩調を失って、並んだ影法師がほとんど敬太郎の前に立ち塞《ふさ》がりそうにした。敬太郎の方でも、後《うしろ》から向うに突き当らない限りは先へ通り抜けなければ跋《ばつ》が悪くなった。彼は二人の後戻りを恐れて、急に傍《そば》にあった菓子屋の店先へ寄り添うように自分を片づけた。そうしてそこに並んでいる大きな硝子壺《ガラスつぼ》の中のビスケットを見つめる風をしながら、二人の動くのを待った。男は外套《がいとう》の中へ手を入れるように見えたが、それが済むと少し身体《からだ》を横にして、下向きに右手で持ったものを店の灯《ひ》に映した。男の顔の下に光るものが金時計である事が、その時敬太郎に分った。
「まだ六時だよ。そんなに遅かあない」
「遅いわあなた、六時なら。妾《あたし》もう少しで帰《かい》るところよ」
「どうも御気の毒さま」
二人はまた歩き出した。敬太郎も壺入《つぼいり》のビスケットを見棄ててその後《あと》に従がった。二人は淡路町《あわじちょう》まで来てそこから駿河台下《するがだいした》へ抜ける細い横町を曲った。敬太郎も続いて曲ろうとすると、二人はその角にある西洋料理屋へ入った。その時彼はその門口《かどぐち》から射す強い光を浴びた男と女の顔を横から一眼見た。彼らが停留所を離れる時、二人連れ立ってどこへ行くだろうか、敬太郎にはまるで想像もつかなかったのだが、突然こんな家《うち》へ入《は》いられて見ると、何でもない所だけに、かえって案外の感に打たれざるを得なかった。それは宝亭《たからてい》と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入《でいり》をする家《うち》であった。近頃|普請《ふしん》をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝《さら》して、斜《はす》かけに立ち切られたような棟《むね》を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒《ビール》の広告写真を仰ぎながら、肉刀《ナイフ》と肉叉《フォーク》を凄《すさ》まじく闘かわした数度《す
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